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歴史ゲーム「戦国無双5」おすすめ武将「明智光秀」 ~歴史勉強にチャレンジ!~

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こんにちは。

 

以前ご紹介した戦国無双5について、今回は本作の主人公の1人である明智光秀についてご紹介します!

 

おすすめ歴史ゲーム 「戦国無双5」6/24販売開始① ~歴史勉強にチャレンジ!~ - 表裏一体ポジティブブログ~悪いことも視点て良いことに思おう~

戦国無双5ではどのように描かれるか楽しみです!

 

 

明智光秀

はじめに

私がいくつかの本を読んだ中で、自分として最もしっくりくる内容をご紹介します。

人によって内容は変わると思いますので、あくまで一つの説として読んでください。

これをきっかけに皆さんがご自身で明智光秀を調べてもらえますと幸いです!

 

謎の多い前半生

明智光秀といえば戦国最大の謎といわれる「本能寺の変」で織田信長を裏切ったことで、とても有名な人物です。

 

しかし、そんな明智光秀の前半生は不明となっており、年齢も不明で亡くなった時の歳が55歳や67歳等の複数の説があります。

 

おそらく若いころは、美濃の大名斎藤家に仕えていましたが、斎藤道三・義龍の親子争いで道三側につき、道三が負けたことで、居城を追われて浪人となったと思われます。

 

織田信長との出会い

 

光秀が世に出るきっかけとなったのが、足利義昭と織田信長を引き合わせた一件です。

光秀は浪人になった後、最終的には越前の大名朝倉家に身を寄せていました。

 

その同時期に足利義昭も朝倉家に身を寄せることになりました。

義昭は後の15代将軍ですが、この頃は兄である13代将軍義輝が三好一族に殺され、三好一族の傀儡である義栄(義昭のいとこ)が14代将軍となったところでした。

 

三好一族にとって邪魔な存在である義昭は、京を追われて朝倉家の庇護を受けていましたが、一向に動こうとしない朝倉家に落胆し、新興勢力である織田信長を頼ることとなりました。

 

そこで仲介役として一浪人の光秀が登場するのですが、なぜ光秀なのかというと、
浪人時に足利家と繋がりをもったことと、信長の正妻である濃姫(帰蝶)が明智一族であったということが、抜擢の理由だと言われております。

 

結果引き合わせは上手くいき、信長は上洛を果たします。

これによって義昭からは「上洛のきっかけを作った」こと、

信長からは「上洛の大義名分(義昭)を連れてきた」ことから

義昭・信長両方から重用されることになります。

 

今でいうと老舗企業(足利家)とベンチャー企業(織田家)の両方に籍を置いている感じでしょうか。

 

織田家の出世頭

 

光秀が信長に仕えてからは、才能が開花し信長のもとで

同盟国である浅井家の突然の裏切りによる「金ケ崎の退き口」や

信長の残虐な行いとして有名な「比叡山焼き討ち」等で数々の功績を上げていきます。

 

それによって坂本城を与えられ、織田家で初めて城持ち大名となったといわれるほどの出世をします。織田家の出世頭というと豊臣秀吉が挙げられますが、光秀も秀吉に負けず劣らずの活躍だったといえます。

 

なお、足利家と織田家の掛け持ちは両者が敵対したことで、

途中から足利家は見捨て織田家の武将となりました。

 

本能寺の変

 

光秀といえば「本能寺の変」と追われている方も多いかと思いますが、この事件は謎に包まれております。

「本能寺の変」がなぜ起きたのかというのは「野望説」「朝廷説」「恐怖心説」等様々な説がありますが、一番よく知られているのは「怨恨説」だと思います。

 

怨恨説とは簡単に言うと、光秀は信長のもとで多くの功績を上げたのにも関わらず、信長からひどい仕打ちを受け、思いつめたのち、突発的に謀反にいたったという説です。

 

もう少し詳しく説明すると、信長は織田家が武田家を滅ぼした後、長年武田家と争い織田家の背後を守っていた盟友徳川家康をねぎらうために、安土城に招待しました。

その接待の担当者として指名されたのが光秀でした。光秀は入念に準備をして家康の接待をしたのですが、接待の途中で信長は光秀の対応を不満に思い、𠮟責して担当から外してしまいました。そして毛利と争っている秀吉に援軍として行って来いと言われました。

 

また坂本城を取り上げ、新たな領地は毛利家から攻め取れとも伝えられたとも言われております。

 

そして軍を集結して、秀吉のもとに行こうとした時に、考えを変えて本能寺に攻め入ったと言われております。

 

この本能寺の変によって信長だけでなく嫡男の信忠も討ち取ったことで織田家は崩れ、大混乱に陥らせることができました。

 

その後の光秀の行動は素早く、信長の本拠である安土城を抑えて、周辺の武将を取り込み、このまま光秀が天下を取る可能性も大いにありました。このあたりの手早さは流石信長のもとで功績を挙げ続けた光秀ならではだと思います。

 

光秀の誤算

 

本能寺の変を起こしたとき、織田家有力家臣のほとんどは国境にいました。

上杉家(越前)と対峙した柴田勝家

武田家(甲斐)の跡地にいた滝川一益

長曾我部家(四国)に遠征しようと淡路付近にいた織田信孝・丹羽長秀

毛利家(中国)と対峙した羽柴秀吉

 

これらが戻ってくるのには時間がかかるし、そもそも対峙している中で近畿に帰ろうとすると背を打たれる恐れもありますので、そう簡単には動けません。

 

光秀はこれも計算しながら、各武将が対峙している敵国にも書状を送りながら、

着々と近畿を抑えていきましたが、ここでいくつか誤算が生じます。

 

1つ目は、近畿内の有力武将である細川藤孝を仲間に引き込むことができなかったことです。細川家とは藤孝の息子(忠興)と光秀の娘(玉)が夫婦になるなど、婚姻関係があったのですが、本能寺の変の後、光秀の誘いにのりませんでした。ちなみに玉は後の細川ガラシャです。

 

2つ目は、秀吉が予想よりも早く京に戻ってきたことです。これは秀吉の功績「中国大返し」としても有名ですが、本能寺の変をいち早く察知し、毛利家と和睦して短期間で戻ってきました。さらに戻ってくる間にも近畿の各武将に「信長は生きている」「本能寺の変は失敗した」と嘘の書状を送り、各武将が光秀側につくのを妨害しました。情報戦においては秀吉の方が得意だったようです。

 

これら誤算もあり、大義名分を得た大軍の秀吉軍と山崎で戦って敗戦し、最後は落ち武者狩りにあい、生涯を終えることとなりました。

 

最後に

明智光秀については、世に出るまでの前半生、「本能寺の変」の真相、南光坊天海と同人物説等、いろいろと想像が膨らむ謎の多い人物です。

 

私の勝手な光秀人物評ですが、
外交・軍事・内政等、戦国武将が必要な能力全てにおいて秀でた
戦国時代を代表する武将だと思います。

 

ただ3英傑(信長、秀吉、家康)と比べた時に、
革新的な発想力・実行力をもった信長、
圧倒的な人心掌握術を持った秀吉、
並外れた忍耐力をもった家康

といった突出した能力がなかったorあっても活かすことができなかったのが
天下を取ることができなかった要因でもあるのかなぁと思っています。

 

以上で明智光秀の紹介を終わります。

 

私は明智光秀を知ったのは小学校の歴史の授業で、
その頃は「主君である織田信長を倒した裏切り者」という印象しかありませんでした。

それが「信長の野望」を遊ぶようになり、異様に高い能力値を見て次第に光秀に関心を持つようになり、書籍で調べるようになりました。

 

今では光秀は戦国武将の中でも好きな武将の一人となっています。

皆さんもこの機に光秀に興味をもち、是非いろいろな本を読んで、様々な明智光秀を知ってもらえると嬉しいです。

 

また戦国無双5ではどのように描かれるか楽しみです!

 

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